2005/4/24 uploaded

 ここで、「気」に対する私の思いをお話しさせていただきます。(前回の「ここまで」に書いた内容をちょっといじっただけですが‥。(^_^;))

 「気」という言葉も一般にかなり認知されてきているようですが、まだかなり怪しいもののように思われているようです。

 その理由の一つには、やはり「気とは何か」がわかっていない為、説明ができないということが挙げられると思います。しかし、手を触れずに人を動かすなどの現象は事実として存在するわけですから、説明するとしたら、そのような現象を説明する理論の一部として説明すればよいわけです。それなのに、非科学的で荒唐無稽なもののように扱われてしまうのは、「気」という言葉が、話題となる状況や使う人によって意味が異なる場合が多い為だと思います。それはとりもなおさず、「気」という概念が単一の内容ではなく、広い意味を含んだ概念であることを示しているのですが、気功など「気」に関係したことを行なっている人は、「気」という言葉に自分なりの思い入れがあり、そのような思いを込めて話すことが多いようです。実際、「気」はこの世界の仕組みに密接に関連した概念なので、深く知れば知るほど、その人の持つ「世界観」「宇宙観」「人間観」に影響してくるのです。それはとりもなおさず、「気」について話す人がどのような「世界観」「宇宙観」「人間観」を持っているかで、その人が話す「気」の内容が変わり得るということなのです。それどころか、何でも「気」という言葉で片付けてしまおうとする人もいるようです。これでは、「気」という言葉を使う人が多くなっても共通語にはなり得ません。だから話をしていても、やがてどこかで話の焦点が合わなくなったり、何のことだかわからなくなったりしてしまい、結局、受け入れられないのだと思います。

 私は、「気」の話をする時には、「気」を定義すべきだと思います。それが「気」というものの範囲を狭小化することになったとしても、それをことわった上で、「今話している気というのは、これこれこういうもののことについて言っているのです。」ということを明らかにして話すべきだと思います。一般に共通概念として認知されているわけではないのですから、そのようなことを行っていかなければ、いつまでたっても怪しいもの扱いされてしまうように思います。

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