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心臓に学ぶ人生の話

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ここでは、心臓に学んだ
『生きる』ということについて
お話しさせていただきます。

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 心臓はなぜ生まれてこのかた一度も休まずに働き続けているのでしょう?

 心臓もたくさんの細胞から成っています。細胞は酸素の供給がなければすぐに死んでしまいますから、心臓の細胞も血液から酸素の供給を常に受けています。血液を送り出し体の細胞に酸素を供給しているのは心臓ですから、心臓は「自分」を生かすために働き続けているのです。でも、心臓は「自分だけを」生かすために働いているのではありません。心臓が働いて血液を体中に回すことによって体全体の細胞が生きることができます。すなわち心臓は自分以外の「他」をも生かすために働き続けているのです。もし、心臓が自分自身のためだけに働いたとしたら、他の臓器は生きて行けなくなり、結局は心臓も生きて行けなくなるのです。肺が酸素を取り入れるのをやめたら心臓はアウトです。肝臓が解毒作用を止めたら心臓はアウトです。心臓以外のどの臓器もその働きをやめたら心臓は働けなくなってしまいます。すなわち、心臓にとって自分を生かすことは他を生かすことであり、他を生かすことは自分を生かすことなのです。このことはつまり、自分を『生かす』ことは、他から『生かされる』ということでもあるわけです。このように、「自分を生かす」ことと「他を生かす」こととは一致しており、さらに、「生かす」ということと「生かされる」ということとは別のことではなく、同じことの裏表なのです。

 心臓は肺の代わりはできません。心臓は肝臓の代わりはできません。心臓は他のどの臓器の代わりもできません。心臓はあくまでも心臓なのです。そして、肺や肝臓も心臓の代わりはできません。心臓の働きは心臓しかできないのです。それが心臓の『役割』なのです。すなわち、心臓が生まれてこのかた一度も休まずに働き続けているというのは、心臓が自分の役割を精一杯全うしているということなのです。時には体の状態に応じて予備力を精一杯使って働いています。でも無理はしません。無理をして心臓の働きが弱れば命に直結するからです。心臓は自分自身の能力の範囲内で持てる力を最大限に使って働いているのです。
『目の前の現実に対して、自分の役割を、できる範囲内で最大限に全うする。』
とてもシンプルなこのことを淡々と行っているのです。

 私たちは幼い頃から競争社会の真っ只中で育ってきました。学校教育がそれです。学校ではテストを行います。テストをする目的は、「勉強したことをどのくらい理解できているかを個人が知ること」のはずでした。ですから、テストの点数は他人と比較される筋合いのものではなかったはずでした。ところが、実際には、テストをするたびに比較をします。大人も子供も。点数の高い順に順位づけをすることもあれば、そこまであからさまではなくても、他の人の点数には関心を示します。それが当たり前だと思ってきたのです。そこには、自分と他人とを比べていい悪いを判断する「比較する意識」があるのではないでしょうか。学校教育だけではなく、小さい頃からそのような意識を当たり前のこととしている社会で育ってきた私たちは、潜在意識の奥底に、これでもかこれでもかと「比較する意識」を刷り込まれてきています。その結果、私たちは、知らないうちになんでも比較してものごとを見ることが当たり前になり、何の疑問も感じなくなってしまったのです。社会の常識にすらなっているといっても良いと思います。

 例えば、「他の人よりいい点を取りたい。」「ライバル会社より売上げを伸ばしたい。」という「競争意識」、「もっとお金がほしい。」「もっといい暮らしがしたい。」「もっと‥‥」という「限界のない拡大意識」、「みんな持っているのに私が持っていないのはおかしい。」「みんなできるのに私(あなた)ができないのはおかしい。」という「歪んだ平等意識」など。また、そのようにはっきりとはしていなくても、容姿・体格・年齢・身に着けているもの・持っているお金・年収・職業・地位・肩書き・出身大学・家柄・親類縁者・友人知人・住んでいる所・行ったことのある所・会ったことのある人...などを日常的な会話の話題にしたり、そのようなことで他人を評価したりすることは誰しもあるのではないでしょうか。このような、人の内面的な人間性を直接表してはいない外面的な事柄を日常的な話題にするというのは、どこか心の奥底に自分と他人とを比較する意識があるからではないでしょうか。

 結局、このような思いは自分と他人とを切り離してしまっています。自分と他人とを切り離してしまった結果、私たちは自分の目の前の現実を自分のものとして捉えられなくなってしまったのではないでしょうか。「クラスの中でいじめられているのは本人の問題」「リストラされて自殺するのは本人の問題」「街でホームレスをしているのは怠けている本人の問題」「戦争で国民が飢餓に苦しんでいるのはその国の問題」‥‥ 確かにそうなのですが、では「クラスメイトがいじめられているのを知った」ということは?「リストラされて自殺する人が世の中にいることを知った」ということは?「街にホームレスがたくさんいる事実を知った」ということは?「世界のあちこちで戦争が絶えることなく、その国の人々は貧困と飢餓に苦しんでいるという事実を知った」ということは?これらはすべて私たち自身の現実ではないでしょうか。様々なことを「知った」という私たちの現実はあるわけで、決して自分と無関係な話ではないのです。私たちには、様々なことを「知った」という現実に対して、「では自分としてどうするか」という行い得ることがあるのです。

 本来人間は一人一人容姿も能力も異なっている存在です。異なっているのが当たり前なのになぜ比較するのでしょうか?本来比較できるものではないのです。比較しても何の意味もないのです。私たちは人間としてこの世に生を受けた存在としてみんな「平等」に『いのち』を授かっています。でもそれは、みんな同じ、すなわち「同質」という意味ではありません。私たちは一人一人異なった人間なのです。だから、この世において各々異なった役割があるのです。自分がいて自分とは違う他人がいて、そういう異なった人々がいてこの世が成り立っていくのです。それは、一つの体が心臓や肺や肝臓など様々な臓器から成り立っているのと同じことなのです。各々の臓器が自分の役割を自分のできる範囲内で最大限に行うことにより体は成り立っているのです。各々の臓器の働きは比較できる筋合いのものではありません。もちろん競争などありません。そして、自分を生かすことと他を生かすことが一致しており、自分と他は切り離されてはいないのです。私たちはこのことに謙虚に学ぶべきではないでしょうか。

『目の前の現実を自分のものとし、その現実に対してできる範囲内で最大限、自分の役割を全うする。』

このシンプルなことを淡々と実行することが、『生きる』ということの基本なのではないでしょうか。

私はそのように思います。

Dr.0910


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