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痴呆に学ぶ人間の話

−第2部−

このページの目次

−第1部−

  1. 人間は万物の霊長
  2. 個体発生は系統発生を繰り返す。
  3. サルからヒトへ、更なる進化は脳の進化
  4. 脳の基本的な機能:情報処理とは?
  5. 脳の話

−第2部−

  1. 脳の働きから見た人間らしさとは?
  2. 人間として限定された働きしかできなくなった脳の状態:痴呆
  3. 脳の「廃用症候群」
  4. 人間として生きる

6.脳の働きから見た人間らしさとは?

 さて、サルよりも人間において発達している脳は、言語野前頭前野でした。言葉を使ってコミュニケーションするのは人間だけですから言語野が発達しているのはわかります。でも、人間にも言葉を発することができない人がいますが、それでもサルではなく人間であることは誰でもわかることです。どうも、サルと人間を分けているのは言語に関する部位よりも前頭前野に関する機能のようです。では、人間の前頭前野はどんな働きを司っているのでしょうか。

 先ほど前頭葉は精神機能の座と言われているとお話ししました。実は、この精神機能を司っているのが前頭前野であると考えられているのです。では、人間の精神機能について少し詳しく見ていきましょう。

 脳科学では、精神機能には、「知・情・意」の三つの機能があるとしています。「知」とは知的機能であり、我々が知能と呼んでいるものに相当します。「情」とは感情のことです。「意」とは意志・意欲・関心などのことを指します。これら三つの機能の中の「知」情報処理に相当します。「情」「意」は「知」の情報処理に方向付けをするような働きと考えればわかり易いのではないかと思います。恐らく、このような精神機能の三つの要素はサルにも存在しているのだと思いますが、サルと人間ではその中身が違い、そこにサルと人間を分けているものがあるのではないでしょうか。

 そこで、人間の精神機能について少し考えてみましょう。先の「服を買う女性」の例からも、人間の脳で行う情報処理が複雑であることはおわかりと思いますが、それはなぜなのでしょう。五感からの情報が多く複雑なのでしょうか。確かに人間の社会には様々な情報が溢れていますから情報が多いということも言えるかもしれません。でも、情報は取捨選択できるのです。例えば、見えても見ず、聞こえても聞かずというのがそれです。また、視野の中の一点に絞って見ようとしたり、聞こえてくるある音だけに耳を澄ましたりすることができます。だから、単に情報が多いのではなさそうです。

 人間が取り入れる情報は複雑であると言えます。それは、情報に意味付けがされるからです。例えば、冷蔵庫の中にケーキを見つけたときに「食べたい」と思うかもしれませんが、その他に、「誰かが後で食べるためにとってあるのかもしれない」とか「古くなっていて食べたらおなかを壊すかもしれない」とか様々な思いが出て来得るのです。それらの思いはなぜ出てくるのかというと、人間は様々な過去の経験から学習し膨大な情報を記憶し、ある情報が入力されたらその情報に関係のありそうな記憶をもとに情報処理を行うからです。ここで、ひとつ人間の高度な『学習・記憶』能力がサルとヒトとを分けていることに関係があると言えそうです。でも、人間には脳の病気のために記憶能力だけが著しく低下してしまった人がいます。「側頭葉性健忘」という病態ですが、この人は新しく記憶することができないので、後で見返す必要のあるものはすべてメモに書いておきます。メモをもとにして生活するのです。これは不便かもしれませんが、人間としての生活はできるのです。サルはメモなど取りません。とることができないし、また取る必要もないのです。こう考えると、単に記憶能力が優れていることがサルと人間を分けることにはならないようです。ただ、単純な記憶ではなく『学習』ということは人間の精神機能に大きく関わっているように思います。

 私は次のように考えます。人間の情報処理というのは入力された情報を関連する学習記憶を参照して『思考』し、さらに『判断』して出力することになります。そして、この過程に『感情』『意志』が関わります。これら『思考』 『判断』 『感情』 『意志』が、各々高等な働きを為しているのだと。人間は、計算をしたり、抽象的に考えたり具体的に考えたりできます。また、将来のことを推測して計画を立て実行することができます。人間にはこのような『複雑な思考能力』があります。また、思考した結果を行うべきかどうかとか、行なったことを省みたりなど、『判断・評価する能力』があります。感情は通常「快‐不快」とか「好き‐嫌い」という二元論で話されるのですが、人間は二元論を超えた『感動』を味わうことができます。それは、芸術に対してであったり、誰かが行った小さな親切に対してであったりします。また、「快‐不快」とか「好き‐嫌い」という低次な感情や、本能や食欲・性欲という低次な欲求をコントロールする『理性』があります。過去に学習されたパターンにこだわらず、新しいものを『創造』することができます。そして、何よりそれら人間に与えられた能力を自ら発揮しようとする自由な『意志』があります。私はこれらの働きが人間を人間たらしめているのだと思います。

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7.人間として限定された働きしかできなくなった脳の状態:痴呆

 「痴呆」という病的状態があります。皆さんは「痴呆」という言葉を聞いて、どのような状態をイメージするでしょうか?食事したことを忘れ、何度も何度も同じことを聞いてきたり、言ってもすぐに忘れてしまう。元々無かったお金を取られたなどという妄想、誰もいないのに誰かがいるというような幻覚、夜中に一人で外出して帰って来れなくなる徘徊など、皆さんのイメージとしては、このような「記憶障害」「異常行動」が浮かんでくるのではないでしょうか。確かにそのような状態を呈する人はいますし、多くの人が、そのような、周囲の人が右往左往するような手のかかる、いわゆる“厄介な”状態のことを「痴呆」と言うと思っているようです。でも実は、そのような、いわば“目立つ”状態のみを「痴呆」というわけではありません。「痴呆」という言葉は、使う人の理解度によって、その意味するところが変わってくることがあるので注意が必要です。

 「痴呆」という概念は、その重要点として、次の三つのポイントが挙げられています。

  1. 後天的に発現する
  2. 精神機能全般の低下を生じる
  3. 脳の器質的障害によって生じる

 つまり、「痴呆」とは、『後天的な脳障害によって生じる精神機能の全般的低下状態』のことなのです。ここで大事なのは、『精神機能の全般的低下状態』ということです。先程お話ししましたように、人間の精神機能とは「知・情・意」ですから、これら三つの機能の低下した状態ということになります。ただし、三つの機能が全て同等に低下しているという意味ではありません。どの機能がより強く障害されているかは、人によって異なってくるのです。記憶障害が非常に強い人、思考力低下の強い人、すぐ怒り出して感情のコントロールのきかない人、何に対しても無関心で自分からは何もしようとしない人など、実際の病像は人により様々なのです。

 私は、「知・情・意」の高等な精神機能が人間を人間たらしめていると考えていますので、痴呆状態とは、脳から見ると「人間として限定された働きしかできなくなった状態」ということになり、私は、『人間が人間らしく生きにくくなった状態』と表現しています。

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8.脳の「廃用症候群」

 「痴呆」と一口に言っても、「痴呆」病態名であって、一つの病気ではなく、その中には「アルツハイマー型老年痴呆」「脳血管性痴呆」など、原因の違う幾つもの病気が含まれます。日本における「痴呆」患者は、「アルツハイマー型老年痴呆」と「脳血管性痴呆」が約半々であると言われていました。

 しかし、ある先生がそのことに真っ向から反対する、興味深い説を唱えていらっしゃいます。

 その説とは、日本の「痴呆」患者の約8〜9割は、「アルツハイマー型老年痴呆」でも「脳血管性痴呆」でもなく、「脳の廃用症候群」であるというものです。「廃用症候群」とは、簡単に言えば、『使われないので機能が衰えてしまった状態』のことです。例えば、健常人でも、もし何ヶ月もベッドに寝たきりの状態を続けると足腰の筋肉や骨が弱くなり、立つことができないばかりか骨が折れやすくなります。また、内臓も同様で、ずっと家に閉じこもって体を動かさなければ、心臓や肺の働きは弱まります。このように、人間の体は使わなければ衰えます。このことが脳にも起こるというのです。

 「でも、人間は毎日毎日考え事をして頭を使っているじゃないか。」と言う人がいるかもしれませんね。確かにその通りです。先程の情報処理のことを思い出せば、私たちの脳には、五感を通じてたくさんの情報が入力され、それらを処理し、出力して、私たちは日中活動を行っているわけです。私たちが起きている間は、脳は休みなく働いているはずです。でも、ここには大きな落とし穴があります。

 それは、『脳が働いている』と言っても、いつも脳全体が働いているわけではないことです。『脳の働き』という一つの働きがあるわけではなく、脳機能には様々なものがあり、それらが脳に機能局在しているのです。つまり、脳のどの辺を使うかによってその働きが異なっているのです。だから、『毎日脳を使っている』と言っても、毎日毎日同じ機能ばかり使っていれば、実は、その他の機能は使われていないのですから、そういう使われない機能を担当している部分は衰えていってもおかしくないのです。

 では、ここで、「廃用症候群」を起こすような脳の使い方とはどのようなものか、少し考えてみましょう。

 「痴呆」とは、『人間の精神機能全般の低下』なのですから、「脳の廃用症候群」から痴呆になったということは、「知・情・意」を働かせなかったということになります。つまり、深くものごとを考え、判断して行動するということをしなかったり、感動には無縁で、「快−不快」や「好き−嫌い」というものさしだけで行動したり、理性を働かさず欲求のおもむくまま行動したり、何も興味や関心を持つことがなかったり、自らの意志で新しいことをしようとする意欲もない、というような生活をしていたということになるわけです。そして、それは、人間らしい生き方をしてこなかったということなのです。このことは私たちにとってとても示唆的であると思います。

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9.人間として生きる

 現代日本は物質的にはとても豊かになりました。そのことにより、私たちは便利で快適な生活を享受しています。それは、結局「楽したい」という思いから生じてきたことなのではないでしょうか。「そりゃ、楽して生きて行ければ申し分ない。」と思われるでしょう。私もそう思います。でも私は、「楽をする」ということと「自らは何もしなくていい」ということとは違うと思います。私たちの今の『便利』で『快適』な生活とは、「できる限り『自らは何もしなくていい』状態」を作り出す生活のことなのではないでしょうか。極力体を動かさなくても済むような、極力頭を使わなくても済むような、そんな生活が今の『便利』で『快適』な生活なのではないでしょうか。

 極力体も頭も使わないようにすれば、私たちの体も頭もかろうじて僅かに与えられる負荷にのみ耐えられれば済むようになっていくのは当然ではないでしょうか。これが「廃用症候群」の正体です。私たちは、『便利』で『快適』な生活を求めることによって、自らを「廃用症候群」に追い込んでいたのではないでしょうか。そしてそれは、人間らしい生き方とは反対方向に向かう生き方だったのではないでしょうか。とすれば、『人間らしい生き方』とは、今の『便利』で『快適』な生活とは反対方向に向かう生き方、「自らの持てる能力を発揮する」生活なのではないでしょうか。それは、ものごとを深く考え、自ら判断して行動し、素直に感動し、理性を働かせて欲求を高次なものへと昇華し、様々なことに興味や関心を持ち、自らの意志で新しいことを創造しようとする意欲にあふれた生活、そんな人間の脳力をフルに発揮する生き方なのではないでしょうか。そしてそのような生き方は、私たちを「廃用症候群」に陥れることのない、「わくわくする楽しい」生き方なのではないでしょうか。

 人間の姿形をしていれば『人間』なのでしょうか?私は『人間として生きる』とは、人間の姿形をした者がただ食べ物を食べて体を維持しながら好き放題の生活をするということではないと思います。これまで見てきたように、人間の脳の働きはとても複雑な精神機能を司っており、それはまさに人間を『万物の霊長』たらしめていると思います。私たちは『万物の霊長』であることを自覚し、今の『便利』で『快適』な生活ではなく、万物にとって『楽しい』世の中を作るために、自らの脳力をフルに発揮していくべきなのではないでしょうか。

『人間として生きる』とは、そのように生きることだと、
私は思います。

Dr.0910

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