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2003/12/31

25.

 皆さんこんにちは。『Dr.0910』です。

 今年、平成15年も最後の日となりました。いつもながら思うのですが、一年経つのが速いですね。あっと言う間という気がします。

 ただ、今年はいつもの年と違って、もう一つ思うことがあります。それは、今年は何だか霧に包まれていたような気がするのです。

 私自身、この一年、思うように身動きが取れなかったという印象があります。(別に病気になったわけではありませんので‥(^_^;))自分自身の外側に向かってあることをしたいと思っても、何だかエネルギー不足のような状態で、行動を起こせなかったことが何度かありました。それで結局どうしたかと言いますと、自分の外ばかり見ることを止め、立ち止まって自分自身の内側を見つめてみました。そうしたら、あれもこれもと手を付けようとしていることが一杯あり、自分自身を動かす余裕が無いことがわかりました。それはちょうど、『いのち』第三章後編の中で例えとして挙げている、リソース不足のような状態でした。

 それで次に、なぜそのような状態になってしまったのかを考えてみました。実際には「考えてみる」と言うよりも『心の中を感じてみる』と言った方が適切と思います。(このような方法を『内観』と言うそうです。)そうしたら、私にはこれまでの人生の中で、正面から向き合うことをせず、心の奥に潜めたまま、ずっと逃げてきた大きなことが幾つもあることがわかりました。どうもそれらから目をそらす為にわざと自分自身の外側にばかり目を向けていたようなのです。

 このことに気づいてから、外向きの行動は最小限に整理して行きました。そして同時に、自分の心の奥底に押しやっていた事柄に正面から目を向けることにしました。これは、心理学的に言えば、トラウマ(心的外傷)に対峙するということです。一つ一つの事柄を思い出し、イメージしながら、なぜそのことがトラウマになってしまったのかを“自分自身のこととして”捉えて行きました。

 この“自分自身のこととして”と言うのは大事なことだと思います。なぜなら、トラウマは自分と誰か相手(例えば、親)との間で起こった事柄により生じたものですが、あくまでも“自分の”トラウマです。トラウマが生じた時には相手から一方的に傷つけられたと思えるような状況でも、最終的に、そのことをトラウマにしてしまったのは自分であり、そのトラウマを今の今まで後生大事に持ち歩いてきたのも自分なのです。

 そのことが理解できると、自分にとってはとても大きな出来事であり、心の奥で後生大事にしてきたトラウマも、今となっては「な〜んだ」と言うくらい些細なこともありました。でも、さすがに「大きな出来事だったなぁ」と思うようなことが腑に落ちて理解できた時には、自然に涙が出て来ました。

 『いのち』第三章を読まれた方はお分かりと思いますが、私が第三章後編に書いたことと同じなのです。いのちの連載を進めていくにしたがって、私自身が、自分の心の奥にある“貯蔵庫”の存在に気づき、それに正面から向き合わなければならなくなったのです。

 そんなことをあせらずに少しずつ少しずつ行っていくにしたがって、自分自身が少しずつ楽になっていくのが実感できました。それは、自分を覆っていた霧が少しずつ晴れて行くような感覚です。しかし、まだ晴れてはいません。以前と比べると大分楽にはなりましたが、私の心の奥にはまだ何かが待っているようです。それから、どうも個人的な事柄からだけではないようです。

 世の中に目を向けてみましょう。今年一番衝撃的な事件は何でしょう?

 えっ、阪神優勝?!。(そ、それもそうかもしれませんけど‥(ーー;))

 私にとっては、イラク戦争です。もっと正確には、「米国によるイラク侵略」です。米国のイラク攻撃の大義名分とされた大量破壊兵器は一体どこにあるのでしょう。イラク侵略は当に終わっています。それなのに大量破壊兵器は全く見つかっていません。元々無いのではないでしょうか。今回の米国のイラク攻撃を人間個人の関係に置き換えて捉えて見ると、こんな感じではないでしょうか。

A:「おいI。お前、9月11日に俺を襲ったアルカイダとかいう奴と仲良くしてるらしいな。」

I:「そんなことないよ。知らないよ。」

A:「何しらばっくれてやがるんだ。うそ言ったって、お前も俺を殺そうとして銃を持っていることはわかっているんだぞ。」

I:「えっ、そんなの濡れ衣だよ。銃なんて持ってないよ。そんなに疑うなら家まで来て調べてごらんよ。」

A:「うるさい。がたがた言ってんじゃねー。もう我慢ならねー。」

――― バキューン! ―――

 相手が銃を所持して自分を撃とうとしていると勝手に疑って、銃の存在も明らかになっていないのに、撃たれるからと言って撃つ。こんなことが許されますか。そんなことちょっと考えてみればわかることです。でもわが国の首相は真っ先に賛成しました。個人間では許されないけれども、国家間では許されるのでしょうか。マスコミを含めて、私たちの間では本質的な議論は一切なしです。今ではすでに終わったことのように扱われています。

 そうなのです。私はこの世の中自体に、何だか濃い霧のようなものがかかっているような気がしてしょうがないのです。そして、その霧が人々から真実を覆い隠し、本質的なことを追及しようとする思考をも鈍らせているような気がするのです。

 私たちを覆っている霧は、わずかずつながらも晴れてきているような気もします。でも、本格的に霧を晴らそうとするならば、私たち一人一人が立ち止まり、自分自身の外側ではなく、内側にこそ目を向ける必要があるように思います。

 私たち一人一人を覆っている霧が、すみやかに晴れ、世界が平和へと向かうことをお祈りいたします。

 それでは皆さん良いお年を。

平成15年12月31日

Dr.0910

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