ちょっと余談になりますが、私たちは、自分にしろ他人にしろ、何らかの職業を選ぶ時、その職業を選ぶのにふさわしいと思われる理由を求めがちではないでしょうか。特に医師などは人の命を扱う聖職という見方をすることが多いので、高尚な理由を求めがちではないでしょうか。でも、極端な言い方をすれば、人が職業を選ぶ時、何らかの“きっかけ”はあるかもしれませんが、“理由”はそんなに明確ではないのではないかと思います。たとえ、医師を選んだ理由として「人助けをしたい」とか「世の中の役に立ちたい」などという高尚な理由を挙げたとしても、やはり明確ではありません。なぜなら、医師になる前に、医師が実際どんなことをしているのかを知ることは、まずできないだろうからです。医師になってもそれだけでは、人助けになったり世の中の役に立つわけではないからです。また、人助けや世の中の役に立つ職業は、医師でなくても他にたくさんあるからです。

 実際、私は、医師として就職する前に思い描いていたイメージと医師になって実際に行なうことになったこととのギャップに、最初はかなり戸惑いました。同様に、他の職業でも、実際にその職業に就いて働くまでは、その職業がどんなことをするのかを知ることはできないと思います。だから、何らかの職業に就く前に、その職業に就きたい理由を明確にすることなど、本来できないのではないかと思います。まして、その職業にふさわしいと思われる理由など、ただの建前のように思えます。何かになりたいとか、何かをしたいという時の動機は、本来、意外と単純なものなのではないかと思います。その単純な動機を生じるきっかけこそ、あなたの『自己』からの働きかけかも知れません。私たちはあまりにも『自我』に執着し過ぎているのではないでしょうか。もっと『自己』を受け入れることにより、私たちは他者ともスムーズにコミュニケーションできる社会を築くことができるように、私は思います。

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