私はちょっと違うと思うのです。なぜなら、この考えには、過去から未来に流れていく時間の概念が根底にあり、魂がその時間の流れに乗って成長して行くということを前提にしています。でも、魂は時間と空間を超越した次元に存在している為、この現象界の時間の流れに乗って成長していくということはあり得ないからです。これは具体的にはどういうことかと言いますと、ちょっと受け入れ難いかもしれませんが、過去・現在・未来を含めた、私たち人類の歴史のどの時代でも、どの場所にでも、魂はその一部を人間として存在させることができるということです。一つの人生を終えた次の人生は必ず未来ということではなく、過去の時代で人生を送るということもできるのです。このことを“転生”と言うならば、それら幾つもの転生に順番はないのです。
さらに極端なことを言えば、魂の側からすると、同時にすべての転生に関与しているとも言えるのです。なぜなら、魂は時間を超越した次元に存在しているからです。私たちが高い山の上から下界を俯瞰できるように、私たちのすべての歴史を同時に見て、それらに関与することができるからです。そして、それらには、もちろん私たちの未来をも含まれているのです。過去、現在、未来へと“流れていく時間”は、この現象界にのみ存在する尺度なので、そのような“時間の流れに沿った転生”は、あくまでも私たちの側から見た現象なのです。ですから、魂の側から見れば、“転生は無い”と言うことができますし、私たちの側から見れば、“転生はある”とも言えるのです。そして、おそらくそのような時間の流れに乗って魂が成長すると考えるから、人格の向上=魂の成長と思ってしまうのだと思います。