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ここでは心臓の病気に関わることを幾つか挙げて、
その中から私が学んでいった事柄についてお話ししましょう。
不整脈の中には何十種類もあり、中には命に係わるものもありますが、実際の臨床ではそのようなものは少なく大方のものは命に別状はありません。中でも頻度が多いのが「期外収縮」というもので、これは、規則正しい脈の中に単発あるいは連発で、規則的な間隔よりも早く心臓が打つものです。(下の図を参照してください。)
このとき脈を触れていると脈が跳ぶのです。また胸がドキンとするような動悸を感ずるときもあります。心臓に異常な感覚が生じ、さらに脈が跳ぶので、感じた人は心臓が止まるのではないかと思って心配になって病院を受診したりします。しかし、期外収縮は脈が跳びますが心臓が止まっているわけではなくちゃんと動いているのです。 また、期外収縮そのものが異常なわけではありません。というのも、いわゆる健常人でも24時間心電図という検査を行ってみると、動悸など全く感じていなくても期外収縮は出ているのです。そしてその頻度も様々なのです。
動悸を訴えて病院を受診し、検査の結果、「動悸の原因は期外収縮です。」と診断されるかもしれませんが、その場合問題になるのは、心臓に病気があるのかどうかです。心臓に病気があればその病気に対して治療しなければならないからです。しかし、心臓に病気が無ければ期外収縮は取るに足らないものとなります。期外収縮そのものに対する治療はほとんどの場合必要ありません。この場合治療法がないわけではありません。抗不整脈剤という不整脈の発生を抑えるような薬が使えないことはありません。しかし、もともと命に別状がなく健常人にも出ているものに対して薬を使って抑えるというのは、何か医療の本質を見誤っているような気がします。健常人に出ているということは正常なものということではないのでしょうか。
「心臓は永遠に規則正しく打ち続けるもの」という固定観念で捉えるから期外収縮は異常になってしまいます。しかし、『心臓は永遠に規則正しく打ち続けるものなのだろうか?』という疑問の上に立って期外収縮を見返してみると、『なんだ心臓は永遠に規則正しく打っているわけではないんだ。』という現実が見えてきます。
現代医療の価値観が「期外収縮」という診断名を生みましたが、それはそのままイコール治療しなければならない悪い状態というわけでは決してないのです。
その1で解説した期外収縮を考えてみれば、「動悸」という症状が即イコール悪いものではないということがわかると思います。期外収縮が日常ふつうに起こっているものなのですから、それに伴う動悸も起こって当然なのです。起こって当然だということがわかったならば、そのことを当然なものと受け止められるかどうかで対応が全く異なってきます。動悸を感じている人が、『その動悸は日常普通に起こり得るもので気にかける必要はないんだ。』と納得できれば、その動悸は何の問題にもなりません。でも、もしその人が、「いや動悸は異常であり何とかしなければならないんだ。」と頑固に思い込んでいたとすれば、その動悸はその人にとっては異常となります。正常と異常の境目というのはこのようにそれを判断する人の価値観でいくらでも変わるのです。
だからといってこのような人に対して抗不整脈剤を処方してしまっては問題の本質を捉えられていません。期外収縮としてはやはり治療不要なのです。問題はそのことを受け入れられないその人の自我なのです。現代社会にはこのような人が結構たくさんいるようです。医者はプロですから十分な情報提供をしなければなりませんが、このような人に対しては、訴えが執拗なので医者も辟易して抗不整脈剤を出してしまうかもしれません。そして、本人も薬が出されたことで納得して、安心してしまうかもしれません。しかし、そのときこの人は抗不整脈剤を飲むことによる副作用のリスクをすべて負わなければならないのです。抗不整脈剤には催不整脈作用といって、新たな不整脈を誘発する副作用があり、新たに出現した不整脈が命にかかわるような重大なものになることも起こり得ることなのです。命に別状のないものに対して、する必要のない治療をし、そのことで命に係わる重大な事態に陥るかもしれないのです。『自分を主張する』ということは『そのことに関して起こることは自分で引き受ける』ということです。決して他人まかせや無責任な態度であってはならないのです。
ただここで注意しなければならないことは、動悸のすべてを取るに足らないものだといっているのではないことです。治療が必要な不整脈による動悸のこともあり、また期外収縮であっても心臓に病気があって起こってきているかもしれないのです。『動悸があることそのものが、即イコール異常なのではない。』ということです。
心臓弁膜症は心臓の弁そのものが変化して起こってくるので心臓単独の問題であり、治療はその弁に対して行います。しかし、心臓の病気だからといって心臓だけが原因で起こっているとは限りません。例えば高血圧症の人がなり得る心臓病に高血圧性心疾患というのがあり、これは、高血圧という全身性の状態が心臓に影響して起こってきた病気なので心臓単独の問題ではありません。何よりもまず初めに高血圧を治療しなければなりません。
このようにある別の病気が原因で起こってきた病気のことを「続発性疾患」と言います。
また、狭心症や心筋梗塞という病気はまとめて虚血性心疾患と言いますが、これは、心臓の血管である冠動脈が動脈硬化になって起こるものです。だから、動脈硬化という全身性の状態に対して治療を行わなければならないのですが、えてして医療現場ではそのことは軽視され冠動脈に対する治療ばかり重要視されています。動脈硬化自体は病気とは言えないので、ある程度起こってくることは仕方がないのですが、動脈硬化の進行を遅らせようとする努力は、しようと思えばできることはあるのです。そのような努力をせずに、いくら動脈硬化で細くなった冠動脈をバルーンで広げても、またいずれ同じことを繰り返すであろうことはちょっと考えてみればわかると思います。
心臓の病気だからと言って心臓だけに問題があるとは限らず、心臓以外のところから様々な影響を受け得るのです。
心臓の病気が進行するとほとんどの場合、心不全という状態に至ります。これは、心臓がポンプの働きを十分に行えなくなった状態です。この状態では、全身に十分な血液を回すことができなくなるので、その程度に応じて体には様々な影響が現れます。
例えば、心不全状態のときには、心臓が送り出す血液の量が少なくなることよりも、心臓に返ってきた血液を心臓が十分にさばけないという状態になり、心臓に返ってきた血液が心臓の手前で滞ってしまうことになります。この状態を「うっ血」と言います。この「うっ血」によって、肺や肝臓が水浸しになり十分に働けなくなることがあります。そのような状態を「肺うっ血」とか「うっ血肝」と言います。このように「うっ血」が生じることにより心臓以外の臓器の機能不全が引き起こされることがあるのです。実は、この「うっ血」は、「代償機序」といって、心臓のポンプの働きが低下した場合に心臓が送り出す血液量を保とうとして体が行うメカニズムの結果として起こってくるものなのです。しかし、代償機序が働いても心臓が送り出す血液量が十分に保てなくなる場合もあり、そのときには酸素不足により十分に働くことができない状態が、全身の様々な臓器に生じてくることになります。
たとえ心臓だけに生じている病気でも、病気の種類とその程度によっては、全身に影響することがあるのです。
その4の話とも合わせて、『心臓の病気だからといって心臓ばかり見ていていては不十分だ。』ということがわかると思います。
私たちの心臓は一日に約十万回も、ドッキンドッキンと打っています。そして、心臓は生まれてこのかた一度も休まず、文句一つ言わず働いています。それは、ひとときも休まずに力仕事をしているようなものです。このような心臓がバテるとしたらどんなときでしょう?わが身に置き換えて考えてみると、次のようなことが挙げられるのではないでしょうか。
@ 「血圧」というのは心臓が血液を送り出すときの抵抗になるので血圧が高ければ高いほど心臓の負担は増えるわけですが、これに対して心臓は「肥大」といって筋肉の量を増やすことによって対応します。しかし、肥大にも限度があり、いつまでも高血圧の状態を放っておくとやがて心臓は疲れてポンプの働きを十分に果たせなくなります。このような状態を高血圧性心疾患と言います。
A 心臓の細胞に酸素や栄養を運んでいるのは冠動脈です。ですから虚血性心疾患の場合、冠動脈硬化による血液供給の高度な低下が心臓の大部分に及べば、心筋梗塞を起こさずとも心臓はポンプの働きを十分に行えなくなることがあります。そのような状態を「虚血性心筋症」と呼ぶこともあります。
B 脈が速くなった状態を「頻脈」と言い、通常毎分100回以上の脈のことを言います。この頻脈の状態を必要以上に長く続けると心臓の筋肉が疲れて心臓は十分にポンプの働きを行えなくなります。これは主に、発作性頻拍症という突然頻脈になるある種の不整脈が、止まらずに何時間あるいは何日も続いた場合に起こり得るものです。
C 外傷、炎症、心筋梗塞などにより心筋に直接的なダメージが加わった場合、そのダメージが大きく広範囲な場合には心臓のポンプの働きは十分でなくなることがあります。
心臓の身になって考えれば当たり前と思えることなのですが、働きすぎてバテれば病気になるのです。
「心臓の病気なんだから無理をしてはいけない。」と言って、日常の活動を自ら制限して家で寝てばかりいる人がいます。この場合、どんな心臓の病気なのかがまず問題になります。日常の活動を制限しなければならないのは心臓病の中でも限られており、心不全の状態にある人や、狭心症で未治療の人、あるいは、身体活動が致死的な不整脈を誘発する人ぐらいです。その他の人は心臓に関する診断名があっても寝ている必要はありません。例えば、不整脈は命にかかわるものでない限り寝ている必要はありません。狭心症と診断されていてもバルーン治療などで冠動脈の狭窄部分をすでに治療されていて、冠動脈の血流に問題がなくなっている人は寝ている必要はありません。また、かつて心筋梗塞をした人でもその程度が軽く、現在心不全を起こしていない人は寝ている必要はありません。安静にしていれば心臓病が悪くならないということは無く、また、心臓病にならないということもありません。寝ている必要が無いのに寝ている人はただの怠け者であることを理解しなければなりません。そのように怠けたことをしていると、確かに心臓にかかる負担は少なくなるのですが、だからこそ心臓は少ない負担にしか耐えられないように弱くなってしまうのです。自分が怠けているからなのに、「最近動くとすぐ息が切れたりドキドキするのはやっぱり心臓が悪いからだ。」などと言って心臓を悪者にするのは本末転倒です。
自分の生活を振り返ってみましょう。私たちは便利で快適な生活を文明の進歩と言って、あたかも人間自身も進化したかのような気になっていますが、便利で快適な生活というのはできるだけ私たちの体を使わなくてもいいようにする生活のことですから、人間の体は便利で快適な生活の中でかろうじて与えられる少ない負荷にしか耐えられないようになるのは当たり前の話ではないでしょうか。なのに「体力がなくなった。」とか「骨が弱くなった。」とか言って、わざわざ病気にしています。私たちが病気と呼んでいるものの中にはこのようなものが含まれているのです。
心の状態は「自律神経」という神経系を介して体に反映されます。自律神経は主に内臓に分布していて、私たちが意識しなくても内臓がきちんと働くように調節してくれています。自律神経には「交感神経」と「副交感神経」の二系統があり、各々が一つの臓器に対して相反する作用を及ぼして、その時々の体の状況に応じてバランスのとれた状態に内臓の働きを調節しています。心臓ももちろん自律神経の調節を受けており、脈拍と収縮するときの力をコントロールされています。
この自律神経は意識的にコントロールすることはできませんが、意識状態(感情)に左右されます。例えば、興奮したときやびっくりしたときは心臓がドキドキしますが、これは二つある自律神経のうち「交感神経」のほうが強く働いたため、心臓を速く、かつ強く打たせたためです。不安なときや心配をしているときも交感神経が強く働きます。交感神経というのはもともと体を活動的にさせる神経であり、例えば運動しているときには全身の筋肉にたくさんの血液を回さなければならないので、交感神経が強く働いて心臓は早く強く打ってポンプとしての働きを高めますが、これは理に適っています。しかし、不安や心配の状況ではどうでしょうか?不安や心配をしているときというのは運動中どころか安静にしているときのほうが多いのではないでしょうか?ということは、心臓は必要もないのに速く、かつ強く打たされているわけです。もし心配性でいつも何かにつけ心配しているような人は、それだけ心臓を必要以上に働かしていることになります。そんなことがずっと続けば心臓だって疲れてくるでしょう。そこから様々な病気が起こってくることは十分考えられるのではないでしょうか。
心不全という状態があります。これは、心臓の筋肉が弱くなってポンプとしての働きが十分に行えなくなった状態です。ひどくなると肺が水浸しになり呼吸困難になります。そこまでになる前に、体を動かすと息苦しくなるとか体がむくむなどの症状が出る場合もあります。しかし、そのような症状が出たときには、心臓の筋肉はすでにかなり弱っているのです。
心臓の筋肉が弱ってもその程度が軽いときには、体の中で「代償機序」というものが働いて、何とか心臓のポンプの働きを維持しようとします。だから、筋肉が弱って心臓の収縮が低下しても、日常生活に不都合を感じる症状はすぐには出てこないのです。そして、その後もさらに筋肉は弱くなっていきますが、代償機序をもっと働かせて困らないようにしていきます。しかし、代償機序にも限界がありますから、ギリギリまで代償しても代償しきれなくなったら、そこでやっと症状が出ます。このとき初めて「心臓が悪くなった。」と思うかもしれないけれども、その時までに心臓には『人知れず我慢に我慢を重ねた月日があるのだ』という事をわかってほしいと思います。
心不全状態にあるとき心臓のポンプの働きは低下しています。わかりやすく言えば“弱く”なっているのです。だから、健常人の心臓なら普通に行なえる仕事量でも、心不全状態にある心臓が行なうのは大変なことだろうと思います。確かに大変で、普通の人よりも余計に働かなければならないのです。なぜなら、心臓が弱くなっても人の生活というものはそんなには変らないからです。だから、いわゆる普通の生活ができるくらい体を動かせるようにと、心臓は弱くなっても一生懸命に働いています。弱くなったからといって休んでいるわけではないのです。その証拠に、心不全状態の人の心臓でも、体を動かすときには心拍数が上がるし、収縮力もある程度は強くなります。弱くなったからといって休んでいたのではこのようなことは決して起こりません。ただ限界はあります。限界を超えてしまうとき、症状が出るのです。この限界までがんばる力のことを「予備力」と言います。心不全の心臓では予備力が低下しているのです。だから、健常人よりも軽い労作で症状が出るのです。この場合の症状はぎりぎりまでがんばってから出るのですから、決して怠けているわけではありません。言い換えれば、ギリギリまでがんばった証しとして、症状が出るのです。健常人のような生活ができないからといって心臓が休んでいるわけではありません。心臓はいつも最大限にがんばってくれています。
心不全状態にありポンプの働きが低下している心臓でも、いつも最大限にがんばっていますが、だからと言って健常人と全く同じ生活ができるわけではありません。健常人と同じような生活ができるようにとがんばってくれていますが、限界はあるのです。心臓は休むことができません、常に働いていなければならない宿命にあります。だから、常に「予備力」を使って働かなければならない程の負荷をかけていたら、心臓はやっぱりいつかバテてしまいます。そうなったら大抵は病院にかかることになります。そして幾つかの検査をして、「心不全」と診断され、治療が始められます。しかし、心臓はバテてしまっても休むことはできません。常に働かなければなりません。つまり、バテても休んで回復させることはできないのです。そのような状況ではどんな治療をしようとも根本的なことはできませんから、さらにバテはひどくなり予備力はどんどん低下していきます。そしてやがて通常の生活さえも支えることができなくなります。その後もさらにどんどん心臓の働きは低下していき、最終的には生きているだけでも心臓には負担となる程にまで働きが低下していくのです。そうなったときは、その人が生きることを心臓がもはや支えられないことを意味しています。すなわちそのことが意味することは‥‥
生まれてこのかたずっと自分を支え続けてくれていた体に、自分を支えられなくなるくらい負担をかけ続けていたなんて、知らずにとはいえ悲しいですね。
虚血性心疾患は心臓の血管である冠動脈が動脈硬化になることによって起こってくる病気です。この動脈硬化には「リスク・ファクター」といって、動脈硬化を進ませる要因があります。例えば、高血圧・喫煙・高コレステロール血症・糖尿病・肥満などです。これらのうち該当するものが多ければ多いほど、また、該当するものの程度が重ければ重いほど、動脈硬化の進みは、程度が強く、かつ速いのです。このことから、動脈硬化を進めたくなければ、これらに該当しないように、あるいは、該当しても程度が軽くなるようにすれば良いことがわかります。高血圧・喫煙・高コレステロール血症・糖尿病・肥満は食事や運動や嗜好品など、すべて生活習慣に関わることです。虚血性心疾患の治療ではこれらに対する食事の仕方や運動や禁煙という動脈硬化を進めないようにする治療がとても大事です。つまり、虚血性心疾患というのは、私たちにどういう方向に生活を正すべきかを教えてくれているのです。
また、動脈硬化のリスク・ファクターの中には、「A型性格」というものも含まれています。このA型性格というのは、巷でよく言われている血液型性格のことではありません。ある心理学者が提唱した性格のタイプ分けで、A型とB型に分けられています。A型性格とは、非常に競争的・野心的で自分の周囲と常にいさかいを起こしているような人です。それに対しB型性格は、受容性が高く自分の周囲とのいさかいをあまり起こさない人です。A型性格についてもう少し言葉を付け加えれば、自分の考えや主張にこだわる人といえるでしょう。そのような人は他人の考えを受け入れられないあるいは理解できないので自分の周囲とのいさかいを起こしがちです。日本人の場合は他人に自分の意見をはっきり言わないことが多いので、A型性格の人は、いさかいを起こさなくても自分の中にストレスを溜め込むことになるのかもしれません。つまり、「あの人ったらこんなことやって、いったい何考えているのかしら。」などとしょっちゅう心の中で思っているという感じです。このA型性格のように極端ではなくても、私たちは知らないうちに自分の考えにこだわってストレスを抱えてしまっているのではないでしょうか。
虚血性心疾患はこのような私たちの心の態度を正す方向をも教えてくれているのです。
病気になると「苦痛」を伴うことがあります。実際、強い痛みを伴う病気もたくさんあります。そして、人はその苦痛から逃れたくて「何とかしてほしい。」と思います。極端には、「この痛みさえ何とかしてくれれば」という風にさえ思うものです。 急性心筋梗塞は、死の恐怖を感じるほど強い痛みを生じると言われています。それは耐えがたいほどの苦痛かもしれません。そのとき人は「何とかしてほしい。」と思って病院に来るのです。あるいは、「こりゃあ大変なことが起こっているに違いない。」と思って病院に来るのです。そして、命拾いをするのです。急性心筋梗塞は、即、命にかかわる病気です。そんな重症の病気の症状が取るに足らないものだったらどうなるでしょうか?きっと手遅れになって命を落とす人が多いと思います。強い痛みが出るからこそ急性心筋梗塞になっても助かるのです。苦痛を生じるには生じるだけのわけがあるのです。痛み自体が悪いわけではないのです。症状自体が悪いわけではないのです。症状は体に起こっている異変を知らせてくれるメッセージなのです。
「症状イコール病気」という病気も多いです。とすると病気自体がメッセージなのであり、それらを一概に悪いものと決めつけることは本質を見ていないのではないでしょうか。「苦痛は何がなんでも逃れなければならないんだ。」という考えでは、症状を苦痛と感ずる病気はすべてあってはいけないものであり、悪いものということになってしまいます。でも、症状をメッセージと捉え、病気を体からのメッセージと捉えることができれば、病気というものは、本質的にはとても大切なものであることに気づくのではないでしょうか。
私たちの意識を変えるだけで、今まで『病気』と呼んで忌み嫌っていたものを、私たちにとってとても大切なものと捉え直すことができるのです。
Dr.0910