まず一つ目。「人生は修行の場であり、その目的は悟りを開くこと」と考えると、今の自分はどのような存在になるでしょうか?
いまだ人間としての生を送っているのですから、当然悟りを開いてはいません。すなわち、「人生は修行の場であり、その目的は悟りを開くこと」と考えるということは、自分自身を未熟者であると捉えているのと同じなのです。そして、そのような心的態度では、意識的にしろ無意識的にしろ、人を上下(段階・レベル)というものさしで評価してしまい易いのです。だから、自分の知らない知識を持っていたり、自分には無い神秘的な体験をしたことがあるような人物に対しては、自分より“悟り”に近い人であるという評価をしてしまい、そのような人物を信奉するようになってしまうのです。つまり「カリスマ信奉」です。
それから二つ目。彼らは自分に対して未熟者であるという意識と同時に、「優越感」も持っています。つまり、哲学的で高尚な知識を持っていて、さらに、そのようなことを実践しているということは、何も知らないで人生を送っている人に対しては、自分たちの方が“悟り”に近いという優越感を抱かせるのです。そのような優越感は、自分たち以外の何も知らない人々を見下し、自らを教団へどんどん深入りさせることになるのです。さらには、何も知らないでただ人生を送っている“下々の人々”を自分たちが悟りに導かなければならないという、独善的なお節介を焼くことにも繋がって行くのです。(実はこのことが、あの有名な“ポア”という呼称で実態を隠した殺人そのものの思想的背景になったのです。(-"-))