このようなことは明らかに、先生が「教える」ということの意味を勘違いしている為に起こる事です。このような先生は、“生徒が自分(先生)の思う通りに行うようになるよう指導する”ことを“教える”ことだと思っているのです。これは、自分のやり方という“型”に生徒を無理やり当てはめることであり、ただの“強制”です。生徒一人一人の可能性や個性というものを無視している、とてもエゴイスティックなことです。
お恥ずかしい話ですが、私は以前、同様のことを行っていたことがあります。私が医師になって就職した病院は、研修医の教育も行なっている病院で、内科の研修期間は5年間でした。5年目は内科研修医のリーダーとして、年次の低い研修医の教育に当たります。私はそれまでの期間学んできた知識や技術に自信がありました。(驕りですね。(ーー;))また、リーダーとしての気負いもあったのでしょう。他の研修医に対して非常に厳しく指導しました。と言っても、先に書きましたように、自分のやり方を他の研修医に強制するような指導でした。自分としてはそれなりの理由があってのことで、「自分はそれまでたくさんの情報に目を通し、多くの症例を経験し、豊富な知識と技術を獲得した。自分の行なう検査や治療は、それらから論理的に導き出されたものであり、経験の浅く知識も乏しい下級研修医に真似できるはずはなく、彼らにはこれらをそのまま伝えるのが彼らの為である。」と思ったからです。自分としては他の研修医に対する愛情から出た行為だったのですが、“これらをそのまま伝える”というところが問題だったのです。私がそのまま伝えたのは、自分の中で導き出した検査や治療法そのままだったのです。その背景を伝えることがなかったのです。だから、結局、自分の考えを強制することになりました。下級研修医が自分の指導の通りに行わないと、ヒステリックに怒ったこともありました。そんなことをしていて、私に付いて来る研修医はわずかしかいませんでした。ほとんどの研修医は、当たらず触らず、私の機嫌を損ねないように接するようになりました。私には研修医の教育に対して情熱はあるものの、その情熱は完全に空回りしていたのでした。今思えば、本当にダメな指導者の典型だったとわかりますが、あの当時は、なぜみんなが付いて来ないのかわかりませんでした。当時の私には、「教える」ということが本質的にどういうことなのか全くわかっていなかったのです。
本当の「教える」ということは、実は、「自分で学んで行けるように知識や技術を提供する」ということなのです。決して答えをそのまま教えることではありません。しかしこれは、“言うは易し、行なうは難し”で簡単なことではありません。なぜなら、答えを教えてしまった方がずっと簡単だからです。そうして、その答えを実行してみて、「ほら、うまく行っただろ。」と見せた方が説得力があるようにも思えます。でも、それでは生徒の実力は付かないのです。答えは自分で導かなければ、本当の実力にはならないのです。