でも、そうではないと思うのです。そのような考えは『魂』の捉え方を間違えていると、私は思うのです。
実は、以前、私も同様に思っていたのです。人間性を磨き、自分の器を大きくしていくことが魂の成長に繋がり、それが人生の目的であると思ったのです。そしてそれを実行しようとしました。私は器の大きな人間になろうとしました。器の大きな人間は他人の器を包むくらいに器が大きいのですから、他人の言動や行動はすべて包んで肯定できるはずです。ですから、私は他人の言動や行動はすべて肯定するようにしました。たとえ、見ず知らずの人間が自分の周囲でどんなに迷惑なことをしていようと、心の中で、「そういう人もいていいんだ。」と、理解を示していました。
初めは良かったのです。どんな人でも許せる自分になったような気がして、何か自分が大きくなったように感じられて、満足していました。しかし、それはただの自己満足だったのです。人間の器というのは、そんなことで大きくなるわけではありません。そのうち、他人に対する不平・不満が心の中に沸き出てくるようになって来ました。そんな時、私は、「そんな心が出て来ることもあるさ。でも囚われなければいいんだ。ただ“感じて”受け流せば。」と思い、無視していました。心の中に様々なネガティブな感情が沸き起こるたびにそのようにしていました。