それでは、『心』は一体どこにあるのでしょうか?
第七章の終わり(第七章後編54)で、私は次のようにお話ししました。
「おそらく、人格の種としての魂の一部が人間の意識の源なのだと、私は思っています。」
ここで言う「意識」は「心」に置き換えても差し支えありません。しかし、誤解の無いように説明させていただきますと、これは、あくまで「意識(心)の“源”」は魂に由来しているのだろうということであり、魂が心そのものであるという意味ではありません。
第七章後編45で、私は次のようにお話ししています。
「“私は私”と思っている「自我」は、この現象界において形成されている、いわば“仮のもの”であるはずです。なぜなら、魂の一部である人格の種に『からだ(BODY)』に織り込まれている人格的要素が重畳し、さらに他の様々な要素が干渉した結果、形成されているものだからです。」
魂に由来するものはあくまでも人格の種であり、人格の種としての魂の一部が、選択した「からだ(BODY)」に乗って人生を体験する際に、“様々な要素が重畳・干渉して形成された人格”の一部が「心」だと思うのです。私は、結局「心」も、魂の一部に由来する“種”の部分以外は、仮のものだと思っています。魂にとっては「からだ(BODY)」も仮のものです。「からだ(BODY)」は、肉体と霊(広義)から成っています。人間は体と心から成っています。このように対比してみると見えてくることがあります。