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細胞に学ぶ平和の話

−第1部−

このページの目次

−第1部−

  1. はじめに
  2. 相似象の話
  3. 相似象から見た細胞の話

−第2部−

  1. 日本と私
  2. 細胞に学ぶ日本の話
  3. 失われた求心力

−第3部−

  1. 細胞に学ぶ平和の話
  2. キミが世は千代に八千代に
  3. おわりに

1.はじめに

 ことの始まりは私が中学生の頃のことです。理科で細胞の勉強をしていた時に、ノートに細胞の図を描きながら、ふと思ったのです。「細胞って、何だか日の丸に似ているなあ」と。その時はそれだけで終わったのですが、その後、高校の時も、大学の時も、医師になってからも、細胞の図を見るたびに、「日の丸に似ているなあ」と思い出していました。しかし、関連性があるなどということは露ほども思い浮かびませんでした。ところが、実は関連があったのです。それも、とても本質的で大切な。

 私は、中学生の頃から、「なぜ戦争はなくならないのだろう?」「なぜ世の中は平和にならないのだろう?」「なぜみんな仲良くすることができないのだろう?」などと、時々、そこはかとなく考えていました。深く考えていたわけではなく、結論などもちろん出ませんでした。ところが、数年前、「なぜ‥‥ないのだろう?」ではなく、「じゃあ、平和な世の中というのはどんな世の中なのだろう?」と考えてみました。すると「平和」へのヒントがなんとなく見え始めました。

 安全保障という名の元に、国家同士が武力を持ちながら、条約を取り交わして戦争をしない約束をする。これで平和になるでしょうか。全ての国家間で条約を取り交わし、全ての国家がその約束を守っている分には戦争は起こらないことになります。でも、国家間の戦争が起こらなければ平和なのでしょうか?どこかの国が条約を破って戦争を仕掛けてくるのではないかという不安は常に付きまとうと思います。そんな不安を抱えながらも、ただ戦争が起こらないからと言って本当に平和なのでしょうか?

 戦争がなぜ起こるのかを考えてみると、それは、各々の国が自分たちの利益を主張し合い、他の国の利害を考慮しないということのなれの果てに起こるのではないでしょうか。だから、経済という枠組みの中で、常に国家間の利害が対立している状況は、武力的な衝突は起こらなくても構図としては戦争と同じであり、やはり平和とは言えないのではないでしょうか。自国内でも、企業間の競争・対立があり、さらには、会社や学校という同じ集団の中でも、成績を上げるという名目による個人間の競争・対立が存在します。個人を競争・対立に駆り立てているのは一体何なのでしょうか?それは各人の意識です。「もっと良い成績を取りたい」「もっと営業成績を上げたい」「もっと会社の利益を上げたい」「もっと良い暮らしをしたい」「もっと‥‥」という私たち一人一人の意識です。そうなのです。『平和』というのは、この世に生きる人間一人一人の意識の問題なのです。現在のように、競争・対立を日常の意識の根本に据えている人間が築く社会から競争・対立がなくなり、平和な社会が築かれるはずがありません。選挙で偉い国会議員の人が「世の中を平和にします」といくら言っても、総理大臣がちょっと変わったことを言うと、すぐに野党が一斉に揚げ足を取って批判の嵐を浴びせ掛けるというように対立構図が明らかである以上は、与党であろうと野党であろうと、国会議員が何を言おうとただのお題目に過ぎません。私たちの社会の最も根底にあるインフラは、決して何らかのシステムではありません。この社会を築いている私たち一人一人の意識です。私たち一人一人の意識がこの社会の方向性を決定付けているのです。

 ここで、競争・対立は自然界にも存在している自然なことなのではないかと疑問をもたれる方がいるかもしれませんので、少し補足説明をさせて頂きます。 野生動物の世界を「弱肉強食」の世界とよく言い表します。確かにライオンのような肉食獣はシカのような草食獣を食べて生きています。しかし、これは食物連鎖の中における捕食関係です。ライオンとシカが対立関係にあるわけではありません。ライオンがシカと対立してシカを絶滅させたなどという話は聞いたことがありません。ライオンはおなかがすいていないときにはシカが目の前にいても殺すようなことはしません。今足りていても用心用心と言ってせっせと溜め込んで、結局使わないで捨てるような人間とは違うのです。 また、ライオンなどの集団生活をしている肉食獣では、ある集団が他の集団を皆殺しにすることがあるそうです。これは、対立関係と言えます。しかし、これは彼らライオンの防衛本能からのものと言えます。なぜなら、他の集団と対立するのは、自分たちの縄張りと他の集団の縄張りが偶然重なってしまった為であり、自らの縄張りを守ることが、自分たちの身を守ることになるからです。ある集団が縄張りを広げようとして他の集団を皆殺しにするわけではありません。際限なく権力や利益を追求して相手をどんどん蹴落として行くという、人間の競争・対立とは違うのです。

 「自然界は弱肉強食」というのは、人間社会における競争・対立を肯定する何の根拠にもなりません。まして、平和な社会を築きたいという気が少しでもあるなら、そんなことは全く考える必要がありません。なぜなら、私たちは人間であり、野生動物ではないからです。(この辺りの話は、『痴呆に学ぶ人間の話』をご参照下さい。)自然界には、「自然の法則」というものがあります。生物は皆その法則のもと、生を全うしています。それが本能に従って生きるということです。しかし、本能に従って生きるということと弱肉強食ということとは違います。弱肉強食というのは人間が勝手に考えたことであり、自然界には本来、強いも弱いもありません。食物連鎖から見た場合、ただ「食べる者と食べられる者」という関係があり、それは、裏を返せば、「食べさせてもらう者と食べさせてあげる者」という関係とも言えます。力の均衡関係という色眼鏡で見るから弱肉強食と見えてしまうのです。自然界は共生関係にある世界です。もちろん人間もその中で生きているわけで、自然の法則に則って生活しているはずです。しかし、人間は本能でのみ生きているのではない為に、自然の法則に沿わない生き方もできるようです。そして、競争や対立という生き方は、自然の法則に則った生き方ではないのではないでしょうか。

 私は、これから「相似象」をキーワードに、自然の法則に則った「平和」な世の中について、一つの考えをお話しさせて頂きます。

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2.相似象の話

 『相似象』という言葉は聞き慣れない言葉ですが、昔、楢崎皐月という人が作った造語で、「いろいろな現象のパターンが共通である」という意味です。例えば、原子は原子核の周囲を電子が回って構成されていますが、同様のパターンとして、太陽の周囲を惑星が回って太陽系が構成されています。このように、原子と太陽系は「中心に核となるものがあり、その周囲を他のものが回っている」という共通のパターンで構成されており、『相似象』であるわけです。

原子と太陽系の相似象の図

 さらに、この世に存在する物質はすべて原子から成っており、当然太陽系も突き詰めれば、幾つもの原子で構成されています。つまり、「中心に核となるものがあり、その周囲を他のものが回っている」というパターンが原子というミクロのレベルに存在し、そのパターンが幾つも結合され太陽系というマクロのレベルのものを構成した時に、同様に「中心に核となるものがあり、その周囲を他のものが回っている」というパターンになっているわけです。このような構造を「フラクタル」と言うそうですが、原子と太陽系との関係から、世の中はフラクタルにできていると考えると、「中心に核となるものがあり、その周囲を他のものが回ることによって、一段階上位のものが構成されている」というパターンは、この宇宙に普遍的に存在し、宇宙の基本原理となっているように私には思えます。

 それではここで、「中心に核となるものがあり、その周囲を他のものが回っている」ということの意味を考えてみましょう。原子核と電子の間には電磁力が働いて、お互いに引き合っています。つまり、原子核と電子の間には求心力が働いているのです。もし、電子が回転しなければ、原子核と電子は引き合って合体し、原子としては成り立たなくなります。電子が回転することによって遠心力が発生し、その遠心力と求心力とが釣り合うことにより、原子核と電子は合体せず原子が成り立ちます。つまり、電子が回転することによって原子は原子たり得ているわけです。そして、電子が回転するのは、先ず求心力が働いているからであり、電子が回転するということは、原子核と電子の間に働いている求心力という見えないものを表に表現しているとも言えるわけです。

 また、太陽と惑星の間には引力が働いて、お互いに引き合っています。つまり、そこにも求心力が働いています。そして、原子同様、惑星が太陽の周りを回ることによって太陽系という秩序ある惑星系が成り立っており、太陽系が成り立っているということは、太陽と惑星との間に働いている求心力の表現であるとも言える訳です。

 このように、中心にあるものの周囲を他のものが「回転する」ということは、二つのものの間に働いている「目に見えないもの(情報・エネルギー)を表に出す(表現する)」ということなのです。

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3.相似象から見た細胞の話

 細胞は、細胞膜、核(中にDNA細胞小器官(リボゾーム・小胞体・ゴルジ体・ミトコンドリアなど)などで構成されています。

細胞の図

 細胞の中心にはがあり、その中にDNAが収められています。私たちは、大事なものほど奥にしまっておきます。細胞にとってDNAは大事なものなのでしょうか。実際その通りで、DNAは、細胞にとっても私たちにとってもとても大事なものです。なぜなら、DNAとは、「からだの設計図」と言われるように、私たちのからだを作っている情報そのものだからです。

 細胞とは、つまるところ「核の中のDNAの情報を表に出す(表現する)為の共同作業場」のようなもので、それは、幾つもの異なった役割(働き)の細胞小器官が存在して成り立っています。

 細胞小器官の働きは各々異なっていますが、それらは一つの流れで統一されています。その流れは簡単には次の通りです。核内でDNAの情報はRNAに転写され、核外に移動できるようになります。核外に出たRNA小胞体上でリボゾームにより蛋白に翻訳され物質として表現されます。できた蛋白ゴルジ体で処理され、やがて細胞外に放出され、実際にこの現象界で働きを為します。ミトコンドリアは細胞内で様々な働きが行われる為のエネルギーを供給します。

 核内のDNAは、その個体の全情報を持っていますから、その個体そのものとも言えます。しかし、DNAだけ存在しても、ただ情報が存在しているだけで、個体は存在し得ません。つまり、DNAだけの存在は、生命の営むべきこの現象界では何の意味も為さないのです。(実際、DNAは結晶として取り出すことができます。)DNAの情報を現象として表現するための細胞小器官の働きがあって初めてDNAは意味を持ちます。つまり、細胞として個体として存在できるのです。

 DNAがなく、細胞小器官だけ存在していたらどうでしょうか?実は、このようなことは起こり得ません。なぜなら、細胞小器官DNAの情報を元に生じるからです。しかし、細胞小器官が生じてから、DNAが失われてしまうことは起こり得ます。(例えば、赤血球は骨髄で幼弱な赤血球から分化成熟して末梢血中に出て行く直前に、脱核といって核を細胞外に排出します。)このような場合どうなるかと言うと、細胞の働きは単一のものとなり、外界の変化に対する適応能力は低いと言えます。また、もっと本質的には、その細胞は細胞分裂を起こすことができず、増えることも継代することもできず、現存している代で終わってしまいます。つまり、細胞小器官だけ存在していても、やはり、不十分なのです。(ちなみに、赤血球は、最終的には細胞小器官も排出してしまい、ヘモグロビンという酸素を運搬する蛋白を中に詰めたただの袋になってしまいます。そして、約120日後には、古くなったので分解されて、新しい赤血球を作るための材料になります。)

 細胞は、核(表現されるべき情報を提供するDNAがあり、それを表現する細胞小器官があってこそ、一つのまとまった意味のある存在なのです。

 このようにみると、細胞も「中心に存在している核からの情報を核の周囲に存在している細胞小器官が働いて表現している」わけですから、原子や太陽系の仕組みと同じパターンで成り立っていることがわかると思います。つまり、「原子核―細胞核―太陽」「電子―細胞小器官―惑星」というように対応しており、『相似象』なのです。

 この場合、原子核と電子、太陽と惑星の間に働いている求心力に相当するものは何でしょうか?

 それは、DNAという情報です。細胞小器官の働きは、DNAの情報を蛋白という形で表に出す(表現する)ことであり、この働きはDNAの情報が無ければ為され得ないのですから、細胞小器官DNAを志向していると言えるわけです。

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