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細胞に学ぶ平和の話

−第3部−

このページの目次

−第1部−

  1. はじめに
  2. 相似象の話
  3. 相似象から見た細胞の話

−第2部−

  1. 日本と私
  2. 細胞に学ぶ日本の話
  3. 失われた求心力

−第3部−

  1. 細胞に学ぶ平和の話
  2. キミが世は千代に八千代に
  3. おわりに

7.細胞に学ぶ平和の話

 私は、たくさんの個が集まり、各々が様々な働きを為し、一つの秩序ある全体を作り上げている典型的な例を知っています。それは私たちの体、『人体』です。『人体』には約60兆個もの細胞が存在していると言われています。そして細胞の種類は200種類以上もあると言われており、それぞれが異なった働きをしています。「細胞」を一人一人の人間に例えると、『人体』は人間社会に相当するのですが、そのことが、私たちに平和な社会についての大事な示唆を与えてくれます。

 「4)心臓に学ぶ体の話」でもお話ししましたように、『人体』には、「細胞」「組織」「臓器」という階層があります。

 同種の「細胞」がたくさん集まって構成されているのが『組織』です。(例えば、心筋組織・粘膜組織・骨組織・皮膚組織など)これは、人間社会で言えば、学校の中の「クラス」「学年」に相当すると考えられます。また、会社では、「○○課」とか「○○部」という部署に相当すると考えられます。『組織』はそれだけで特異的な機能を為していますが、それは、ある臓器の中における一つの働き(役割)と考えられます。

 幾つかの異なった「組織」が集まって、大きな一つの集団を形成し、特異的な機能を為しているのが『臓器(器官)』です。(例えば、心臓・肺・胃・肝臓・腎臓など)これは人間社会で言えば、「学校」「会社」などという、大きな人間社会という枠組みの中で特異的な機能を担っている集団に相当します

 全ての「臓器」が集まって構成されているのが一つの『人体』です。これは、「人間社会」全体に相当します。このように、「人体」「人間社会」とは、同じ枠組みで構成されていると考えられます。

 『人体』は、たくさんの「個」が集まった「集団」というものを考える時の理想像を呈してくれています。様々な働きをもった60兆個もの細胞が一糸乱れぬ秩序でもって働き、そこには競争や争いはありません。右と左の肺同士で肺活量を競っているという話は聞いたことがありません。右と左の腎臓同士で尿量を増やそうとして争っているという話も聞いたことがありません。左右の臓器は協力し合って一つの働きを為しています。もし、どちらか一方の働きが低下すれば、もう一方が働きを増してバランスをとっています。例えば、若い頃に事故などで片方の腎臓を摘出してしまった場合には、残された腎臓が大きくなって腎臓二つ分の働きをします(このことを「代償性肥大」と言います)。また、心筋組織の中で、一つの心筋細胞が他の心筋細胞よりも余計に働こうとして早いリズムで収縮しているとか、他の心筋細胞を蹴落とそうとして働けないようにしているという話は聞いたことがありません。心筋組織は全体で一つのリズムで動いています。

 『人体』では、常に、全ての細胞は協力関係にあり、かつ、秩序に従って一つの体を成り立たせています。このことを人間社会に置き換えてみると、全ての人間が協力し合い、秩序に従って平和な社会を成り立たせていると言えます。

 しかし、現実の人間社会はどうでしょうか。考えるまでもなく、至る所で国家間の争いが起こっており、また、現代社会は競争社会と言われているように、企業のような大きな集団レベルから個人レベルに至るまで、ありとあらゆるところに競争意識がはびこっています。このような状況では『平和』な社会が築けるはずもなく、また、このような状況下で「平和」な社会の到来をただ待ち望んでも、それはかなわぬ願いというものです。

 では、なぜ人間社会は、『人体』のような『平和』な社会にならないのでしょうか?一体何が、どこが違うのでしょうか?

 それは、「全体に関わる共通の情報」があるかないかです。人体に存在する約60兆個もの細胞には、その一つ一つにヒトのからだの情報DNAすべてが存在しています。すなわち、私たちの体の細胞は各々が働くために必要な情報DNAだけを持っているのではなく、一生使うことがないかも知れないけれども、必要のないものも合わせてからだの情報DNAのすべてを持っているのです。ということは、約60兆個の細胞は皆「全体に関わる共通した情報を持っている」ことになります。つまり『人体』では、DNAというその人体全体に関わる本質的な情報を全ての細胞が持っているのです。現代の人間社会を構成する一人一人の人間は、姿形だけではなく、ものの認識の仕方や考え方、言動や行動といったことなど各人各様であり、皆異なっています。これは『人体』に様々な種類の細胞が存在することに相当します。しかし、私たちは『人体』を構成する細胞と違い、「全体に関わる共通の情報」など持ってはいません。ここに、私たちがいつまでたっても『平和』な社会を築けない原因があるのではないでしょうか。私たちは一体どうすれば良いのでしょうか?

 その答えはもう出ています。私たち一人一人、皆が「全体に関わる共通の情報」を持つことです。『日本』に表された「キミを中心にタミが集まっている」社会では、一つの集団の中に「キミ」が一人しかいませんでした。「カミ」の情報は「全体に関わる情報」ですが、「タミ」は自ら「カミ」の情報を得ることはできないので、「共通の情報」として持ち得なかったのです。それでも「タミ」細胞小器官のように、「キミ」がもたらす「カミ」の情報をそのまま受け入れ自らの働きを為すならば、秩序は保たれるのです。これは、要するに「細胞社会」です。しかし、私たち人間は、細胞小器官とは違い、良くも悪くも自らの意志でどのように働くのかを決めることができるのです。細胞小器官が働かなければ、やがて細胞は崩壊してしまうように、「タミ」「キミ」のもたらす「カミ」の情報を受け入れなくなった時、「細胞社会」は崩壊してしまうのです。

 「人体」を構成する一つ一つの細胞すべてに、からだ全体に関する共通の情報DNAが存在しているというのは、人間社会では、集団を構成する一人一人が「キミ」であることを意味します。私たちは、「タミ」として「キミ」からもたらされる「カミ」の情報を受け入れるのではなく、一人一人が「カミ」と繋がり「キミ」になることにより、「カミ」の情報を共通の情報として皆が持つことができます。一人一人が「キミ」となり、「カミ」の情報のまま、自然の法則のまま、自らの働きを為す時、『人体』「型示し」されているような平和な社会を築くことができるのではないでしょうか。実は、これが「君が代」の真意なのではないでしょうか。皆が「キミ」となって創る社会、「キミが世」こそは、「千代に八千代に」続いていくのではないでしょうか。

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8.キミが世は千代に八千代に

 しかし皆さんは、私たちは「キミ」になんてなれるのだろうか?どうしたら「キミ」になれるのだろう?と疑問に思っていらっしゃるかと思います。申し訳ありませんが、もう少し私の話しに付き合ってください。

 皆さんの中には、ここまで読んでこられてお気づきの方もいらっしゃると思いますが、この話は少なからず、いわゆる「神道」とか「古神道」と呼ばれるものの影響を受けています。「古神道」とか「神道」には教祖がいません。また、教えとか戒律というものもありません。そういった意味で、いわゆる「宗教」とは違います。(だから「神教」とは言わないのだと私は思っています。)「神道」というのは、元々は「惟神(かんながら)の道」と言って、古代日本人にとっては日々の生活に密着した暮らしの指針のようなものであったそうです。だから、古代日本人は、ことさら「宗教」として「神道」を意識せず、「惟神(かんながら)の道」そのままに生きていたのです。「神道」の八百万の神々は様々な自然現象そのものですから、それは、自然の法則のままに生きるということだったのです。

 そのような「神道」の基本に、「祓へ」という考えがあります。これをわかり易く説明する為に「善」「悪」の関係を例にあげますと、「善」「悪」は対立して相容れない存在ではなく、本来の姿を「善」とするならば、「悪」「善」の歪んだ姿であり、その歪みを正せば、「悪」と見えていたものも「善」に立ち返るのだという考えです。そして、この場合の歪みを正すことを「祓へ」と言うのです。キリスト教的な「善悪観」とは全く異なることがお分かり頂けると思います。また、ここではわかり易くする為に「善」「悪」という言葉を使いましたが、本来「神道」には「善」「悪」もなく、ここで言う「善」に相当する言葉は「直霊(なほひ)」と言い、「悪」に相当する言葉を「禍津霊(まがつひ)」と言います。つまり、本来は自然の法則に沿って真っ直ぐにあるべきものが、曲がってしまった為に様々な災いが起こるのだと考え、その曲がりを正し本来の流れに戻すことによって災いは自ずとなくなるという考えです。

 この「祓へ」「神道」の基本にあるので、「神道」には「祓へ」の為の祝詞(のりと)が幾つもあるそうです。その中でも最も古く、一般にも広く知られているものに「大祓詞(おほはらへのことば)」があります。この「大祓詞」の冒頭に、次のような文章が出てきます。

 「高天原に神留まり坐す 皇親神漏岐神漏美 の命以ちて(たかあまはらにかむづまります すめむつかむろぎかむろみ のみこともちて)」

 これは、大祓詞が高天原におはす祖神(おやがみ)のおっしゃられた言葉であるという宣言のような内容で、「皇親神漏岐神漏美」が祖神のことです。この中の「皇親(すめむつ)」という言葉は、祖神を形容する言葉なのですが、この言葉は、「大祓詞」だけに止まらず「神道」のエッセンスとも言うべき言葉だと私は思います。「スメ」というのは「澄む」ということで、「ムツ」というのは「睦まじい」ということ、すなわち「皇親(すめむつ)」とは、「清く正しく、睦まじく」という意味になるそうです。祖神とは、万物を産み出すもととなった働きのことであり、先程から言っている「カミ」のことです。つまり、「カミ」「スメムツ」であると言っているのですから、「惟神(かんながら)の道」そのままに生きる、自然の法則のままに生きることは、「スメムツ」に生きることだと言えます。そしてここには、「スメ」という側面と、「ムツ」という側面があります。「ムツ」の側面は言うまでもなく、皆が仲良く平和に暮らすことです。そして「スメ」の側面は、先ほどお話しした「祓へ」につながるもので、「心を澄みきらせ、素直になる」ということだと私は思います。私たちの心には様々な「色眼鏡」「ものさし」が存在しており、目の前に出会うことを素直に受け取ることができなくなっています。そのような「色眼鏡」「ものさし」を一つ一つはずして行くことが私たちを自然の法則のままに生きることに近づけるのだと私は思うのです。

 人は皆、神の分け御霊(わけみたま)を宿しているはずです。「キミ」とは何も特別な「なる」べき存在ではありません。元々私たちは「キミ」のはずなのです。それが、様々な「色眼鏡」「ものさし」の為に、心に映るものが曲がってしまうために「キミ」であることを忘れてしまっているだけです。だから、私たちは「色眼鏡」「ものさし」を一つ一つ捨てていき、自らが「キミ」であることを思い出していけば良いのです。これが「祓へ」です。神社へ行ってお祓いをすることではありません。修行をすることでもありません。従うべき教えや戒律も必要ありません。何ら特別なことをする必要はないのです。毎日毎日、日々の生活を素直に生きればよいのです。それが「祓へ」です。何か悪いと思うようなことが起こってもかまいません。失敗してもかまいません。それが自分自身のあるがままの姿なのです。それが自然なのです。自分自身の目の前に起こることすべてを認め受け入れていくことが自然に生きることなのです。そのことが自ずと理解されており、ことさら意識せずに生きているのが「キミ」なのです。「キミ」とは人間の本来あるべき姿です。もっともシンプルな人間の姿でもあります。そのように心が澄みきってくると、自ずと平和に生きることができるのではないでしょうか。

 先程、平和な社会が成り立つには、「求心力」先ずありき、人間社会における「求心力」「平和な社会を築こうとする一人一人の意志」であると言いました。しかし、このような言い方をすると、自らの意志を奮い立たせて平和な社会を築いていくような感じがするかもしれません。「力」とか「意志」という言葉にそのような語感があるのだと思いますが、実際はそうではないと思うのです。「日本」で表現された、いわゆる「細胞社会」では、そのような求心力が必要だったのでしょうが、一人一人が「キミ」となった「キミが世」ではそうではないと思うのです。細胞にDNAという情報があり、細胞はその情報を淡々と表現しています。そこには「力」というものは感じられません。全ての細胞がDNAという情報に従って自らの働きを為したら、全体としては、「人体」という一つの秩序が出来上がっていた、つまり、DNAの中に最初から秩序が出来上がっていたのです。細胞はそれを表現したのです。人間社会も同じだと思います。「カミ」「スメムツ」なのですから、「カミ」の情報には最初から平和な社会が出来上がっているのです。私たちは、ただ心を澄みきらせてその情報のまま自然のままに生きられるようにすればいいのです。そうすれば平和な社会が自ずと築かれて行くのです。「平和な社会を築こう」と勇んで自分の外側を見てばかりいては何も変わらないのです。真に平和な社会を築くことは、結局、自分自身を見つめ、自分自身をただただ澄みきらせて行くことなのです。他人事でもなく、社会とか皆という客観的なことでもなく、真にリアルな自分自身のことなのです。

 一人一人がただただ心を澄みきらせ、あるがままの自分の姿を思い出していく。そうして、皆があるがままの自分を思い出したとき、自ずと平和な世の中が築かれていることでしょう。そして、そのような「キミが世」「千代に八千代に」続いていくのでしょう。

 私はそのように思います。

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9.おわりに

 皆さん、ここまで私の長い話にお付き合いくださいましてどうもありがとうございます。この『細胞に学ぶ平和の話』は幾つかの点で少しわかりにくかったのではないかと思います。

 まず、「情報」という言葉の意味するところがなかなか理解し難いのではないかと思います。ここで使っている「情報」は、新聞に載っていたり、ニュースで流れたり、インターネット上で入手できるような、情報化社会において私たちが取捨選択できる情報ではありません。情報化社会の情報は、「良い」とか「悪い」とか判断や評価される情報です。しかし、ここで使っている「情報」とは、表現されるべき情報であり、ある一つの事象が生じたときに、その背後に存在し、その事象を生じせしめる原因となった「カタ」のことです。例えば、プラモデルの飛行機模型には、必ず設計図がついてきます。完成された飛行機模型を作る為には設計図が必要なのです。この設計図が「情報」です。これは、飛行機模型を作るに当たって、「良い」とか「悪い」とか評価される情報ではありません。設計図の表現されたものが飛行機模型であり、設計図は飛行機模型を表わす為に背後に存在する「型」なのです。「情報」という言葉を「設計図」とか「プログラム」という言葉に置き換えると少しはわかりやすくなるかもしれません。DNAの情報も、「カミ」の情報もこのように理解してください。

 次に、「カミ」「タミ」「キミ」などの「やまとことば」が出てくることだと思います。読みは普段使っている言葉と同じなのですが、その意味するところが異なっているので混乱するのではないかと思います。これは、私たちが普段使っている言葉のほうが異なった意味になってしまったのです。言葉を単なるコミュニケーションの手段と捉えた場合、言葉には流行があり、その時代時代で意味が変わってくるでしょう。しかし、言葉は単なるコミュニケーションの手段ではなく、ものの本質を「ひびき」で表現しているのだとしたら、それはどんなに時代が変わっても、その意味するところは変わろうはずがありません。「やまとことば」はそのような言葉なのです。ものの本質を短い音の組み合わせで言い表しているのです。そしてそれは、五十音一つ一つの「ひびき」に意味があるから為され得るのです。「言霊(ことたま)」というのはこのことです。ですから、カタカナで表わして、「」で括ってある言葉は、そのように理解してください。

 特に、「カミ」という言葉は、現代ではちょっと口に出しただけで「あぶない人」と思われるくらい広く誤解されています。現代人が理解しているいわゆる「神」は、人間がお願いをしてそれをかなえてくれるはずの存在、何か大きな力があって人間に施しをする存在、奇跡を起こす存在、人間を評価し罰する存在、何々をするようにと人間に指図する存在ではないでしょうか。私はこのような「神もどき」をあえて「神さま」と呼んで「カミ」と区別しています。「カミ」は大自然そのものです。そして、「カミ」の名は、各々の自然現象を司っている働きを「ひびき」で表現したものです。「カミ」とは大自然の「ハタラキ」なのです。

 最後の方に「色眼鏡」「ものさし」という言葉が出てきましたが、これらの言葉もわかりにくいかもしれませんので少し説明します。「色眼鏡」とは、「何々は○○である。」と言ったときの「○○」のことです私たちは見たり聞いたりしたものを自分なりに判断や評価をします。そして、それらの判断や評価を正しいものと思っています。これを「色眼鏡」と言っているのです。例えば、あなたが道を歩いている時、急にお腹が痛くなったとします。あまりにひどい痛みなので、そのまま道にうずくまっているところに、たまたま通りかかった知人が来て、「大丈夫ですか」と声をかけてくれ、近くの病院まであなたを連れて行ってくれたとします。そのときあなたは、その知人に対して「優しい人だ」と思うかもしれません。そして、あなたはその知人に対して「優しい人」というレッテルを張るのです。これを「色眼鏡」と言うのです。その知人は、あなたの知らないところでは、誰かをいじめているかもしれません。でも、あなたは、「いやいや、私にあんなに優しくしてくれた人が、いじめなんてするはずがない。」と思うかもしれません。そのときあなたは、すでに「色眼鏡」を自分の一部としてしまっているのです。なぜなら、人は他人のことすべてをわかろうはずもなく、他人のことはわからないのが当たり前だからです。それなのに私たちは往々にして、わかった振りをしてしまいます。本当は、あなたの知人が優しい「人」なのではなく、その知人があなたに対してとった行為があなたに対して優しい「行為」だったのです。そのときあなたが優しいと思った行為だけで、その知人のすべてを判断できるわけがありません。それは、あなたの勝手な思い込みなのです。このように人は、自分の思い込みから、様々なものに自分なりのレッテルを貼り付け、そして、レッテルを貼り付けたものに対して「理解した」と思っています。そのようにして「理解した」世界は、偏った、歪んだ世界になるとは思いませんか。このような思い込みからなる歪んだ認識を「色眼鏡」と言っているのです。

 次に、「ものさし」について説明します。皆さん「対義語」というのをご存知だと思います。例えば、「多い−少ない」「大きい−小さい」「高い−低い」というように意味が正反対の言葉、あるいは、「男−女」「先生−生徒」「加害者−被害者」というように両極に立つ言葉で、小学校の国語のテストによく出題されます。このような言葉は私たちの周囲にはたくさんあります。「暑い−寒い」「熱い−冷たい」「広い−狭い」「重い−軽い」「速い−遅い」「早い−遅い」「強い−弱い」「優しい−厳しい」「嬉しい−悲しい」「快−不快」「好き−嫌い」「利点−欠点」「徳−損」「良い−悪い」「善−悪」「光−闇」「大人−子供」などなど。実際この世の中はこのような対義語で表現される世界であり、「二元論」の世界と言います。「ものさし」はこの「二元論」の世界の偏った見方から生じるものです。先ず、私たちは、「○○は大きい」という言い方をします。このとき「○○」を「大きい」と言うためには、本来、「○○」より「小さい」ものがあって、それとの比較の上で言わなければなりません。なぜなら、「○○」よりも「大きい」ものが存在し、それと比べた時、「○○」は「小さい」ものとなるからです。このように「二元論」での表現は「相対的」なものなのですが、私たちは往々にしてこのことを忘れ、「絶対的」なものと思っています。これは勝手な思い込みであって、「色眼鏡」とも共通することです。もう一つは、「二元論」での表現は「相対的」なので、複数のものを同一の基準で比較する時の尺度になり得ますが、私たちはそれらの尺度に、「良い−悪い」という価値を付加した、「価値尺度」として捉えていることです。例えば、お金は「多ければ良い−少なければ悪い」とか、人生「楽ならば良い−苦しむのは悪い」というようにです。「二元論」の尺度は「相対的」なものなので、「お金は多ければ良い」と言っても、自分の持っているお金は「多い」とも「少ない」とも比較する対象によって変わってきます。ということは、自分のお金は「良く」なったり「悪く」なったりするわけです。現代人は「悪い」と判断されたものをそのまま認め受け入れようとはせず、「悪い状況は排除しようとする」ので、その結果、少しでも多くのお金を集めようとすることになるのです。しかもそれは際限がありません。なぜなら、いくらお金を集めても絶対的に「良く」なることはないからです。「二元論」の尺度は、本来良いも悪いもありません。「良い−悪い」というのは、それを判断する人によって容易に変わるものであり、絶対的なものではありません。よって、このような「価値尺度」で世の中を捉えると、やはり偏った、歪んだ世界になると思いませんか。このような「価値尺度」を「ものさし」と言っているのです。

 最後に、これまでお話ししてきた中で私が使っている言葉に引っかかってしまって、どうしても納得がいかないという方がいらっしゃいましたら、どうぞ私の言葉にとらわれずに、自分自身の言葉に置き換えて納得のいくように読み替えてみてください。例えば、「大自然と一体化する」という文の中の「大自然」という言葉がどうもしっくりこないという方は、「天然自然」「宇宙」「大いなる存在」「宇宙意識」「創造主」「サムシング・グレート」などに置き換えてみても結構です。「一体化する」という言葉も「調和する」に置き換えても結構です。または、この文全体を「アカシックレコードにアクセスする」とかJEFISIFUMの情報層にチューニングする」などと言い換えても結構です。要は、言葉じりにとらわれずに私の言いたいことの本質を読み取って頂きたいと思います。

 また、この文章の中でDNAと言っているところは、実際には「ゲノム」と言った方がより正確ですが、「ゲノム」という言葉はあまりなじみが無く、わかりにくくなるのではないかと思い、あえてDNAという言葉を使いました。

 この話を読んでみてわかりにくかった方には、長い話で大変申し訳ございませんが、以上のことを念頭に入れてもう一度読み返して頂ければ幸いです。きっと新たな発見があることと思います。

 さて、さらっと終わりにするはずが、随分とヘビーな終わりの文章になってしまいましたが、これにて『細胞に学ぶ平和の話』全巻の終わりとさせて頂きます。皆さん最後までお付き合いくださいまして、誠にありがとうございました。

 私たち一人一人の心が澄みきって、平和な世が築かれることをお祈りいたします。

Dr.0910

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